【4】人は鏡、万象はわが師(万象我師)
人は人、自分は自分と、別々のいきものだと考えるところに、人の世のいろいろの不幸がきざす。
実は人はわが鏡である。
自分の心を映す影像(えいぞう)にすぎぬ。
山彦(やまびこ)のよべば答える、それにも譬(たと)えられる。
にこにこして話しかけると、相手は笑みかけて答える。大声でどなれば、むっとしてにらみかえす。
物売りが来る。「イラナイヨと、つっけんどんに言うと、ピシャリと戸を引きしめて出て行く。
親子、夫婦、交友、隣人、すべてがわが鏡であって、わが心のままに変って行く。
今日(こんにち)までは、相手の人を直(なお)そうとした。
鏡に向かって、顔の墨をけすに、ガラスをふこうとしていたので、一こうにおちぬ。
自分の顔をぬぐえばよい。
人を改めさせよう、変えようとする前に、まず自ら改め、自分が変わればよい。
これをひろげていくと、人の世のすべては、自分の鏡であり、さらに草木も、鳥獣も、自然の動きも皆、わが鏡であることが判ってくる。
作物も、家畜も、わが心の生活をかえれば、その通りに変わってゆく。
それだけではない。
私をとりまく大自然は、ただわが鏡というそれだけではない。
求めれば、何事でも教えてくれないものはない、無上のわが師である。
自然は真理の百科辞典、書籍(ほん)はその牽引(インデックス)である。
万象は真理の顕現(けんげん)であり、芸術の開花である。
目を開いてこれを見、口をすすいでこれを味わい、心を空にしてこれに対するとき、興味津々(きょうみしんしん)、地上は喜びの楽土と変わってくる。
古人は言った、「万象是我師(ばんしょうこれわがし)」と。
まじめにこれに師事(しじ)して尋ねる人には、正しく答えてくれる。
昔の人は天を父、地を母とよんだ。父母はその子の求めには、何物をも惜しまず与える。
与えられぬのは、ま心からこれを求めないからである。
この求め方を教えるのは古(いにしえ)の哲人(てつじん)であり、今の学者であり、これを伝えたのが書籍(ほん)である。
だから書籍(ほん)は、これを暗記していたところで、それはインデックスを覚えているに過ぎぬ。
学問は信じ過ぎるも愚であり、けいべつするも馬鹿である。
「太上(たいじょう)は天を師とし、其次(そのつぎ)は人を師とし、其次(そのつぎ)は経(けい)を師とす。」(『言志録』)