【15】信ずれば成り、憂えれば崩れる(信成万事)
自信のないことは失敗する。
練習するということは、その仕事なり、競技なりに慣れて間違いのないようにするのが、その形から見たところで、その実は、信念をつけるのである。
信念をねりかため、ねりあげるのである。
きっとできるぞ、きっとやるぞ、と動かぬ信念がその事を成就させる。
自信はモーターの馬力である、仕事の推進力である。
形ではまだ出来ていないが、心ではもう出来上っているのである。
信ずるという事は、事実そうであるから、それと信ずるのではない。
そうであることは信ずるも何もない、もうすでにそうである。
ほんとうに信ずれば、そうなるのであり、必ず信じた通りにさせるのである。
「信ずるが故に神あり」とは、この事をいう。
信ずる所に神が現われ、仏がまします。故に「信は力なり」と言う。
人は、縄をもっては、その肉体をしばる事はできるが、その精神をくびることは出来ぬ。
人の心をかなしばりにしばりつけるものは、ただ一つ信(まこと)あるのみである。
「士は己を知る人の為に死す」(『史記』)と言った。
知るとは信ずることである。
心の底から信じてくれる人には、うそをつくことが出来ぬ。
信ずる人をごまかすことは出来ぬ。
人の世の交りの本は「信ずる」ことであり、事をなすの根本の力は信念である。
決心の強いか弱いかによって、仕事の成否がきまるが、決心ということは、今までなかった事を、こうしようと信念を定めることである。
「ちかい」(誓)というのは、人と人とが、又人が人以外のものと結びあって、信念をかためることをいう。
「祈り」は、神にすがって信念を確立するのであり、大宇宙の大信念と一致しようとするのである。
「祈るときすでに成就したものと思え」とは、そのことである。
悪人を善人にするただ1つの道は、信ずるにある。悪人だから信じられぬというのが常識であるが、悪人だから信ずる。
信ずるから悪をしないのである。
信は、動いて愛となる。
そして、すべてをうるおし、すべてを充たす。信には欠けるところがない。
信は成し、信はみたす。
憂えるのは疑うからである。あぶないから憂えるのではない。
憂えるから失敗する。憂えるからあぶない。
病気は恐れ憂えるから長びく、重くなる。
事業は憂えるから崩れる。
農業のような自然力によった仕事でも憂えるから実りが悪くなる。
うれえるの反対は、喜ぶことである。
希望にもえること、信ずることである。
喜びより発して、信に帰る。
愛は信より発する光であり、熱である。
人生は信によって成る。
乱れは信の欠けたことからおこる。