【3】運命は自らまねき、境遇は自ら造る(運命自招)
人の一生は、運命という、どうすることも出来ない力で、きまった道筋を引きずられて行くものである、というように信じているものがある。
そして生まれた年月日、又時間がわかれば、その人の一生はすっかりわかるなどと言う者さえある。
「運は天にあり」とか「果報は寝てまて」とか言うのは、そうした考えからであろう。
しかし、いやしくも人の関係する仕事で、すてておいて、手をこまぬいて、わきから見ていて出来る仕事がどこにあるだろうか。
自然の現象(しぜんのこと)は定まった法則に従って、一糸乱(いっしみだ)れず運んでいる。
天候に大部分の運命がかかったように見える農業や漁業でさえ、ほうっておいては田畑は草野となり、魚群(うお)はにげてしまう。
ましてや生産も交通も、教育も宗教も、何一つすてておいてできることはない。
毅然と立って行えば運は開ける。
「運は勇者を寵愛(ちょうあい)す。」(ヴァージル)
ぐずぐずしておれば、その機会(とき)は去って二度とかえってこない。
「機会(チャンス)は前頭(まえがしら)だけに髪毛(かみのけ)があり、後頭(うしろあたま)ははげている。
もしこれに出あったら前髪を捕らえよ。
一度にがしたら、神様でもこれを捕らえることは出来ぬ。」(ラブレー)
目の前にきたあらゆる機会(とき)をとらえて、断乎として善処する人、一度こうと目的を定めたら、終始一貫やってやりぬく人、これが世に言う成功者である。
「天は自ら助くる者を助く。」
ぐずぐずして、いくらその時があっても手を出さぬ。
何か困ることがあると、ぐったりしてすぐ止める。
これは世の弱者であり、敗残者である。
塙保己一(はなわほきいち)が、日々「般若心経(はんなしんぎょう)」を読んで心をむちうち、大『郡書類従(だいぐんしょるいじゅう)』を編(へん)さんしたその努力、ヘレン・ケラー女史の師のサリバンが、いかにそのチャンスを捕らえて教育して、この三重苦(さんじゅうく)の大天才を生み出したか。
これを思うと、盲目という一見不遇のさだめは、一転して大きい幸運と輝きわたった。
「各人の運命は各人の手中にあり。」(シドニー・スミス)
従って境遇も、あらかじめ、そうしたさだめがきまっていて、その中に入って行くのではない。
その人の心の通りに、境遇の方が変わるのである。
現に憂うつ性の人が集まって、しめっぽい話をしている。
座はいよいよ打ち沈む。
ここに世に心配をしらぬ青年が、呵々(かか)と大笑して入ってくる。
一座は急に停電後点燈したように明るくなる。
よわり目にたたり目、泣き面(つら)に蜂、心が打ちしめれば、その環境は、梅雨時(つゆどき)のように打ちしめり、かつ然として心が打ち開ければ、天地一碧(てんちいっぺき)、ようようたる大宇宙が打ち開ける。
運命を切り開くは己である。
境遇をつくるも亦自分(またじぶん)である。
己が一切である。
努力がすべてである。
やれば出来る。