【11】物はこれを生かす人に集まる(万物生々)
「物は生きている」と言ったら、半分は「そうだ」と言い、半分は「そうではない」と言うであろう。
しかし物はすべて生きている。
着物も、道具も、機械も、金銭も皆生きている。
大切につかえば、その持主のために喜んで働き、粗末にあつかえば、すねて持主に反抗するだけでなく、時には腹立てて食ってかかる。
けがをするというようなことはこうした場合が多い。
朝ばん、道具を拝むようにして働く農夫や大工が、その道具でけがをするというようなことはない。
不足不平でぶつぶつ言い、機械をかたきのようにいやがり、どれいのようにこく使している人は、その機械の運転がまずく、時には大けがすることさえある。
仕事に精根をかたむける人は、まず用具に手入れを十分にし、用具を大切にする。
用具をわが手足の如く大切にし、衣服をわが体の如く愛するだけでなく、農夫は作物を、生産人はそれぞれの生産品を、わが子の如く愛し、慈くしむ。
そうした人たちによって、この上もないよい物が、たとえようもなく、たくさんに産み出される。
物を象徴し、すべての財を具象したのが金銭である。
金銭は物質の中で、最も敏感な生物である。
金銭はこれを大切にする人に集まる。
ある富豪は必ずドウマキをもっていて、現金は肌身はなさず大切にして旅行した。
ある人は、さつには必ずヒノシをかけてしわをのばして大切に保存した。
人ごみの中に行った時は、金入れを必ず手でおさえていた。
しかしこうしたことは、金銭を大切にするほんの一面で、ほんとうに大切にすることは、むだに使わぬことであり、さらに金銭を生かして使うことであって、これがその頂上である。
物は、人と同じように生きている。
人が徳の高い人のもとに集まるように、物もまた少しでもよく働かしてくれる人のところに集まる。
物をほんとうに働かすとは、使う時思いきってこれを使う事である。
ケチケチするのは、金銭を生かす事にはならぬ。
大たんに、よろこんで、すぐにこれを出す。
これは生かすこと、金を働かすことである。それで我欲の人は金銭を自分一人のために、自分の勝手のためにのみ使いたいという心であるから、活動したい子供たちを、親の勝手にしばりつけておくようなものである。
実は、金銭はその人の努力に正比例し、欲心に反比例して集まってくる。
財貨は、喜んで働く人に自然にめぐまれる。
欲心のあるだけ差引される。
大富豪は、実は無欲至誠の人でなければ、行けない境地である。
世には、報酬を要求し、金銭を請求するのを賤しい事のように思う人がある。
取るべき金を取り、請求すべき金銭を妥協なく要求することは、何らはずべきことでないばかりでなく、かえって、生活にはっきりと筋道を立てる所以がある。
しかし人の働きは、金銭によってねうちをつけられるようなものではない。
又働きの時間や分量によって、いくらいくらと計算されるようなものでもない。
働く人の心――喜んでいるか、いやいやながら時間をつぶしているか、まことを傾けて一心に働いているか、千差万別である。
これをはかりにかけて一々計算したならば、一律の報酬では不公平極まるものとなるであろう。
これは一体どうなるだろうか。
一見不合理のようではあるが、長い目で見ていると、まことの働きによらずに得た金銭は、不時の入費の為に飛んでしまう。
あるいは又、金銭のためにかえって苦しむということになる。
金がある為に不幸になるのである。
だから「金銭はその人の働きに応じて、自然にめぐまれるもの」ということが、わが民族の総合体験であり、我等が会得した人倫の哲理である。
一方、欲がなければ金銭にめぐめれぬと言う事も、一応考えられる事である。
なるほどごう欲な人は金をためる。
しかし金の為に、その人は幸福になったか、苦しむ事はなかったか。
人からの恨みによって不幸に陥らなかったか。
世にそうした不浄な金のために苦しむ実例は多い。
ほんとうに身につく金銭を得る人は、無欲の人である。
大事業家は、無欲の人である。
事業は欲心で左右されるようなものではない。
ただせずにおられず、仕事そのものがすでに無上の喜び、無限の恵みであって、歓喜に満ちて働く、そこに事業はおのずから成功し、金銭は自然に集まるのである。
二宮尊徳先生が、弟子に示したたらいの水の例話のように、欲心を起して水を自分の方にかきよせると、向うににげる。
人のためにと向うにおしやれば、わが方にかえる。
金銭も、物質も、人の幸福も亦同じことである。
物はこれを愛する人によって産み出され、これを大切にする人のために働き、これを生かす人に集まってくる。
すべて生きているからである。