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【13】本を忘れず、末を乱さず(反始慎終)

    
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【13】本を忘れず、末を乱さず(反始慎終)

枝葉のことには気をつけるが、何事につけても本を忘れがちである。

初めは注意深くしっかりするが、終りは、どうにでもなれ、やぶれかぶれだ。これは世間にありがちのことである。

スタートを切るそのとたんと、ゴールに入る一瞬、それで一切がきまる。

ただそれだけではない。

世の中のことは、過ぎたらもうそれでよいというものではない。

苦しんで入学試験を受けて、登校が許された喜びの日を忘れ、勉強しようとして学問に志したことを忘れるから、怠ける、あやまちがおこる。

開店の日のいきごみと、友人のよせられた厚意を忘れるから、少しの困難にも、気をくじかせる。

終始一貫ということは、成功の秘訣であるが、これが出来ないのは、皆本を忘れるからである。

世に、「恩を忘るな」ということがやかましく言われるのは、本を忘れるなという意味である。

食物も、衣服も、一本のマッチも、わが力でできたのではない。

大衆の重畳堆積幾百千乗の恩の中に生きているのが私である。

このことを思うと、世のために尽さずにはおられぬ、人のために働かずにはおられない。

そうした中でも、最も大切な、わが命の根元は、両親である

この事に思い至れば、親を尊敬し、大切にし、日夜孝養をつくすのは、親がえらいからではない、強いからではない。

世の中にただ一人の私の親であるからである。

私の命の根元であり、むしろ私自身の命である親だからである。

ちちのみの父に似たりと人が言ひし我まゆの毛も白くなりにき。(僧 愚庵)

年をとると、年々父に似てくる、母に似てくる。

たべもの、飲もの、顔形、くせ、考え方まで。

なつかしの父母よ。

親が病気するのは子が不幸だからである。

現にこれに気がついて、その子が行ないを改めたため、親の不治の病が直った体験は、『新世』誌上に次々に発表せられる通りである。

ほんとうに、父を敬し、母を愛する、純情の子でなければ、世に残るような大業をなし遂げる事はできない。

いや世の常のことでも、親を大切にせぬような子は、何一つ満足にはできない。

親をとおして己の生命の根元にさかのぼれば、そこに神仏にかえる。

尊神崇祖、即宗教に入ることが、真の人となるゆえんは、ここにある。

「立つ鳥は跡をにごさず」といわれる。

あと片づけをせず、使った道具の手入をせず、靴を揃えぬ、傘のしずくを乾かさぬ、こうした事は身のたしなみとしての単なる作法だとか、行儀とかと心得ているのが、これまでの考えであるが,これを忘れることが、いろいろの不幸の原因となるのである。

ある家の子供が、もう相当な年齢もなっていても、小便をするに所と時を選ばぬ。

困りぬいたあげく、喜んで、すべてのあと始末をする決心をして、両親がその生活をかえた時、ぴったりとこれが直った。

子供のよだれくり、自分のもの忘れ、犬猫等家畜の不始末等は、こうした末を顧みない、だらしない心境の反映であることが多い。

ただそれだけではない。

こういうしりのしまりのない人々の仕事は、多く七八分まで行って崩れる

もうだいじょうぶというところでガラリと行く。

そしてこれを他人のせいにし、時勢の罪に帰せようとするが、実は、皆己の心境の反映にすぎない。

小さい事に末を乱す人は、大切な事に終りを全うしない。

その極は悲惨な死様をすることにさえなるのである。

昔の人は死を重んじ、りっぱな死に方をしたいと念じた。

正しく生きた人でないと、美しい死に方はできぬ。

見事な死にようをした人は、見事な一生を貫いた人である。

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