【7】肉体は精神の象徴、病気は生活の赤信号(疾病信号)
人は、骨と肉と血と皮と……から、出来ているが,これだけで生きているのではない。
これは、たましい(魂)すなわち心があって、一人の人間として、生命があるわけである。
しかし心(生命)は、どこにあるのやら、昔の人はきもにあると思っていた。
それで「きもだまが太い」とか「小さい」とかという。
中国では、下腹にあると思っていたらしく、丹心とか丹田とか言う。
インド辺では、のどにあると思っていたらしい。
西洋では心臓にあると思ったので、心をハートと言い、この頃、「心臓が強い」などと言う。
又頭にあると考えられていて、 「あの男は頭がわるい」などと言う。
しかし心が肉体のどこにあるのか、さっぱりわからぬ。
いや、どこにでも行きわたっていっぱいになっている。
そして、心には形がなく、肉体には形があるが、この2つが全く1つになっていて、ちょうど電球(肉体)と電流(心)とのようになっている。
電流が弱いと火がホタルのようになり、強いとパッと明るくなる。
人も恐れると青くなり、はらをたてると赤くなる。ひどく驚くと、腰がぬけたり、全身が動けなくなったりすることもある。
これでみると、肉体は、心のいれ物だと言える。
それが、もちと重箱といったような、そういった容器ではなくて、蓄電池をみたようなもので、形のない心を、形ある肉体の中にいっぱい入れているのであり、またその心のようすで、容器の肉体がいちいち変わっていくので、「肉体は心の象徴」というより外はない。
象徴というのは、それだけで十分現れてしまっているというわけではないが、これ以外には表しようがないほど、うまく表しているということである。
「桜の花が、大和心のシンボルである」というように、人の肉体は、その人の心をそのまま表しているから、人相とか手相とか見て、その人の心が読めてよいわけである。
いや、その人にあえば、初対面の人でも、その人物の大体は見当がつく。
そうだとすれば、肉体に病気が起った場合、これは、肉体だけがわるくなった……と片づけてよいであろうか。
(肺がわるい、胃が痛む、足が自由にならぬとかいう場合)
これまでは、多くの、肉体だけの故障と考えられて、そうした療法が加えられたが、実は体がバイキンにおかされたり、悪くなったりする今一つその奥の原因がある。
それは心に不自然なひがみ、ゆがみが出来たことである。
そのとき病気の原因になっている心のまちがいは、実は、その人の家庭の不和、事業の不振等から来る(というよりも、そうした生活環境とぴったり一致している)もので、ほうとうは、生活(家庭や仕事)の暗影(不自然さ)が、自分の肉体に赤信号としてあらわれているのである。
そのあわられ方が、又実に見事に、その心の不自然さをうつしているわけである。
それで、病気の根本である心の暗影(生活の無理なところ)を切り取ってしまって、朗らかなゆたかなうるおいのある心になれば、肉体は、自然に、すぐに、直ってしまうものである。
それで、病気は実に、困ったもの、人生の苦しみなどではなくて、有難い自然の注意、天の与えた赤信号であるから、喜んでうけて、間違いを直すべきである。
でないと、折角なった病気を、ただそれだけとして直しては惜しい、勿体ない。
今や病気をこわがる、恐れる時代は過ぎた。
よろこんで、これを利用する時代がきた。
会友は皆これを体験して、明朗の世の中に生れ変っている。
病気のお見舞に「それは結構です」と言う時代がきた。