毒親だった母に結婚式で初めて伝えた気持ち
病弱な姉のきょうだい児として過ごした幼少期
3つ上の姉は私が物心付いた頃から1か月に1回は高熱を出して入退院を繰り返していた。
病弱で母は常に姉につきっきり。
更に姉は児童劇団に入り、子役の真似事をし、やりたいと言った習いごとは全てさせてもらい、妹である私はついでみたいに好きでもない同じ習いごとをさせられて、ほったらかしに等しかった。
それなのに私は健康であることがまるで罪かのように、「完璧な子」であることを求められた日々だった。
児童会長を勤め、小学生時代の表彰状は十数枚、担任の先生は口を揃えて「非の打ちどころがない」と言う生徒像を作り上げ、子どもの頃の私はそれを演じるのに必死だった。
次第に私自身も母もどんな結果を残しても達成感を得られないようになっていく。
二言目には「健康なんだから出来て当然」と勉強もスポーツも、優秀でないとうちの子じゃないという態度の母に心をすり潰されながら過ごした。
成長すると教育ママ、毒親、きょうだい児、その言葉に縋った
思春期、青年期を迎えると元々読書好きだった私は様々な本に出会うことになる。
丁度大学生位の時、毒親という言葉が流行した。
幼い頃私は母に否定されないように必死で生きてきた。
子どもをそんな気持ちにさせる親自体が、毒になる親だったことをその頃本屋に並んでいた本で知ったのだ。
子どもという立場からすると、教育ママ、毒親などの親を批判する言葉は救いになる。
自分が悪い子どもだから、母親が自分に怒るという可能性を潰すことができるからだ。
子どもに問題があったのではなくて、母に問題があった。
そこに気が付くことができた瞬間、胸のつかえが取れた感覚になったのだ。
その後病気や障害のある兄弟姉妹を持つ子どものことを「きょうだい児」と呼ぶということや、そんな風に辛い気持ちを抱えている子ども達がいるということを世間の人も知るようになっていく。
このことも幼い頃の私の寂しさ、辛さを誰かに分かってもらえた気持ちになり救われた。
結婚なんてしないで墓守娘になれと告げる母
子どもの頃常に感じていた閉塞感のせいで、私は表向きは愛想が良いが誰にも心を許せない大人になった。
このままずっと、孤独のまま一人で生きていくのか、と大学卒業後仕事一色の日々を過ごした。
けれど運良く今の夫に出会うことができ、夫側の両親には祝福してもらえた。
しかし私の母は、私より主人の出身大学の偏差値が低いことを理由に夫を全否定。
挨拶の席も拒み続け、夫の東京転勤を切っ掛けにどうにか結婚話を進めることができたがここでも私は母に対してマイナスな感情が増幅した。
何故なら私にずっと家にいて、独身で親の面倒をみて、代々続いてきた墓を守れと言うのだ。
私の母の田舎も父の田舎も、まぁまぁ地元では名の知れた家系で親戚関係も無視できないものがあったのだ。
母は私が幸せになることを邪魔している、この時はそんな風に感じていた。
結婚式での両親への手紙で言えた本当の気持ち
結婚と夫の転勤も重なり、その後すぐに娘を授かったこともあり結婚式ができたのが娘が1歳を過ぎた頃だった。
親しい友人数人とそれぞれの両親・兄弟姉妹だけを呼んだ小さな式だった。
1歳になったばかりの娘は、小さな花嫁さんのようにおめかしし色々な人に可愛がってもらった。
私は娘のその姿を堪能し、自分の花嫁姿、夫のタキシード姿を見て、急に「ああ、そうか」と納得した。
母は私が幼かったあの日、私を放っておいたのではなかった。
勉強もスポーツも立派であるようにと願ったのは、姉の看病で寂しい思いをさせた私に負い目があったから。
母親が放っておいたせいで、私が勉強ができない子どもになってしまわないようにと気を揉んでいたのだ。
健康でないとできないことを、私がどんどんやり遂げることが母はただ嬉しかっただけなのだ。
夫のことを否定して結婚を認めようとしなかったのも、本当に娘を任せられる相手なのかがただただ心配だったのだ。
勝手にプレッシャーを感じ、母の心配してくれている気持ちに反発し、「毒親」「教育ママ」という色眼鏡で母を見ていたのは私の方だった。
その時、私の手の中には前の晩ネットで例文を真似して書いた、何にも心に響かない「花嫁の手紙」があった。
足元で娘が涙を溜め始めた私の顔を、不安そうに見詰めている。
手紙を娘に握らせてその小さな身体を抱き上げて、私は、真っ直ぐ母の瞳を見詰めた。
本当の、私の気持ちを母に告げたその後、怒る時にしか涙を見せなかった母のうれし涙を初めて見た。
そして、母から告げられた「大きくなってくれて、ありがとう」。
初めて、母の本当の姿を見た。
それを気付かせてくれた小さな娘を中心に、私たち母娘と家族は毎日とても騒がしく暮らしている。